Kinesiology note

依存も自立も偏りすぎずに、バランスです。

つい依存についても問題の部分だけ
切り取ってしまいますが、

実は自立しすぎても

身体は疲弊してしまいます


人に迷惑かけたくないから、
なかなか頼れない、

甘えられない、

そのうち身体は悲鳴を
あげてしまった、など


甘えられない、
頼みごとができないという方も

かなり多くいらっしゃる、と
思います



私も、幼少から

親から、いつも、
人に迷惑をかけてはいけない

何度も言われてきました。

結果、それは、

一般常識の範囲だと思うけど

私は、親に迷惑をかけてたら
大変なんだと受け入れてしまってたんですね


それらは、
パートナーに対しても、
罪悪感にすら感じてしまっている、、


絶対的に言えない、なにかが
私の中にあります


困った顔を見たくないは、

親に対してという思いと同じに
パートナーにも、投影として、
同じく思ってしまっている


自分ですべて抱え込む「癖」は
ここにあるんだな~、と。


トラウマサバイバーは
この依存と自立の感覚を
極端に持っているように感じます。


これは、お金の使い方に
表れているようにも思います。


なにか、あれば親に頼む
こんなことが頭にある人は、依存傾向にあるし、
なにがなんでも、出してもらう理由を探すからです。
そのメリットと、デメリットの説明を考える。

本当はシンプルな自分の思いがあるはずなのに。



反対にわたしのように、
親には絶対言えない人間は

脳は「死」を意識しているように感じます。
生存本能のような、、
絶対言えない、でもどうしよう…と。

絶対私が何とかしないといけない、になっている。

そのどちらの感覚側に偏りすぎているのかに
気がつくことで、

真ん中の位置で、
それらを感じ尽くしていれば

その執着はゆるまって

自分の中にスペース(余裕)が生れる気がします。


どっちでもいいよね~、からの、
改めて冷静なクリアな状態で「選択」は
ブロックも何もない、シンプルな
素直な状態は通りやすいんですね。

なんで、そんなに頑なに
なっていたのだろう、と

思うこと、結構多し、

また、自分の癖に気がついていく



この前の記事、
建築家のヒグチ先生のシュタイナーのお話で、

どんなに大変でも
自分の直感に従う、とおっしゃっていました。

それは、最近私がハマっている
重ね煮のことで知った、
百姓屋敷わらの、オーナー船越さんもおっしゃっていました。

今の現実を受け入れて、
それでもなお、自分の魂の声に従っていく生き方、

自分の声を聴くというのは、

普段から自分の声に素直で、自然にリリースされて
循環が良いのだと思います。

身体のセンサーが自然に磨かれていて
魂が、こっちだよー、なんぞ行っているをキャッチしているだと思います。


どっちかに偏りすぎていると

身体に緊張が出ます


この感覚のリリースは

手放してみないとわからない感覚なので


セルフケアは、必要だと信じてます。



時々、楽しければいい、とか言う方をする人がいますが、、
ネガティブを排除した考えの方がいます。

すこし紙一重なのですが、

魂が、こんな状況でも、それを選択したい、
そんな突き動かす何か、なのかもしれません。

それは、恐れと、行きたいが
同時にあるときのような気がします。



すこし、ずれましたが
偏りに気づく、

ネガもポジもしっかり味わい

それらを手放していく




迷いが多い方は、思考が溜まっているのだと思います。
あーだ、こーだ、と。

こころの断捨離がすすんでいくと、
余裕が生れて、可能性が出てきます。


活きずらさを感じていましたら

キネシオロジーや
カフェキネシは脳のバランス調整にも役だってくれます。



ご縁がありましたら幸いです。



お読みくださり、ありがとうございます。